膝に男の手が乗せられたが、ゆかりは何の抵抗も出来なかった。

向かいに夫が座っていて、彼の隣に裕樹がいる。

「裕樹君は、算数がどうも苦手なようですね……」
接客用なのか、少し甲高い声で男が言った。

「俺の息子だからかなぁ」と夫が苦笑いをする。
裕樹もつられて、はにかむような笑みを浮かべた。

「少し厳しい言い方をしますと、やはりこのままでは難しい。
 苦手科目があるというのは、取りも直さずそれを他の科目で
 フォローしなくてはならないということです」
真面目な表情でそう言っている男の指先が、ゆかりの太股を撫でている。

全身の毛穴から発汗しているように、体が熱い。
夫が気付くのではないか、と気が気ではなかった。

「休みの日も遊びに行かないで勉強してるのに、
 努力が足りない、ですか」
口調から、夫がわずかながら苛立っているのが彼女には分かる。

「そこまでして入らなきゃいけないのかな、そもそも。
 中学校なんて、どこも一緒じゃないのか?」

右手の人差し指を立てて、男が反論する。

「学歴が全て、とは私は言いませんし、
 勉強が出来ることで幸せになれる、とも私は思いません。
 人生にはもっと大切なことがあるとも思います」

そこで言葉を一度切り、彼は夫と裕樹の顔を交互に見た。

「しかしどこの中学校でも一緒、ということは絶対にありません。
 そこには彼の人生を大きく左右する重大な結節点があります。
 一度悪い分岐に進めば、本人の努力では変えることはほぼ出来ません」
 
「学が無いと苦労する、ってのは分かるけどさ……」

ぶつぶつと漏らす夫を遮るように、男はまた人差し指を立てる。
「失礼ながら」と前置きしてから、彼は滔々と説明を続けた。

中卒の人間はどうなっていくものなのか、
学歴によって収入の差はどれくらいでるものなのか、
おちこぼれた生徒がどういうことになるか。
この私立中学に入れば大学まで入試無しで進学でき、
それにはどれほどのメリットがあるのか。

説得力のある言葉の波濤に、夫は情けない言葉を返した。

「俺は……納得いかないけど、まあ裕樹の教育をゆかりに今まで任せてきて、
 今さら反対する権利も無いと思うし、口出しはしないよ」

「仕事持って帰ってきてるから」と言って、夫は立ち上がった。
裕樹に「パソコンの部屋使うぞ」と断ってから、彼は二階に上がっていく。

ゆかりは安堵の溜め息をついた。

男の手は相変わらず。薄手のスカートの上から太股を撫で回している。
彼は、今年の倍率が例年に比べてかなり高いことや、
面接の評価基準が上がり事前準備がより大切になってくることを話した。

相槌を打ちながら、ゆかりは男の表情を盗み見る。
鼻息が荒くなったり、目線が泳いだり、額に汗をかいたり、
そういう動揺や興奮を微塵も感じさせない表情だった。

他人の家庭に上がりこみ、団欒のなかに紛れて母親に手を出す。
「そういうこと」に慣れているのだ。
スカートをまくろうとする左手の、ピアニストのように細い指を見ながら、
仁科ゆかりはこの男と初めて会ったときのことを思い出す。

彼を紹介してくれたのは、隣の家の伊東夫人だった。
伊東夫人は、ゆかりより三歳くらい年上だと言っていたから、
恐らく三十の半ばなのだろうが、若々しい女性だった。

一人息子が、有名私立中学に入学できたのはある塾講師のおかげなの。
伊東夫人はそう言って、半ば強引にその男と会う機会を作ってくれた。
二週間後の週末、ファミレスで内容の説明をする、と。

ゆかり一人で行くように、と念を押す伊東夫人の口に薄い笑みが浮かんでいた。

身体を求められているのだと気付くのに、五秒かかった。

話の飛躍が余りにも急だったし、またそんな展開になるとは
夢にも思っていなかったからだ。

神崎と名乗る塾講師は、それが当然の成り行きであるかのように
ゆかりに向かって要求した。
代価を払う気がないならば交渉はここまで、とも付け足した。

ゆかりはドリンクバーから持ってきたカルピスソーダを飲み干して、
それから席を立とうか立つまいか迷う。
神崎は人差し指を立てて、見透かしたように
「迷う時間をあげましょう」と言った。

「お手洗いに」と言い残して、ゆかりは席を立つ。
ファミリーレストランの清潔な女子トイレで、彼女は鏡を見ながら考える。
普段の彼女なら「たかだか受験くらいでそこまでするわけないでしょ」と
一も二もなく断るであろう問題外の取引だが
このときのゆかりは、かなり長い時間思い悩んだ。

伊東夫人の話ぶりから、この男に頼れば確実に合格させてもらえるだろう。
もちろん裕樹を信じていないわけではない。
愛息がどれだけ頑張っているか知っている。
しかし、純粋に数字で考えれば合格率は四割を切るだろう。

遊ぶ間も惜しんで、死ぬ気で頑張ったのに、努力が報われなかったとき、
彼はどう感じて、どういう成長をしてしまうのだろうか。
息子が不良になる姿や、治安の悪い中学に入りいじめられる姿が浮かぶ。
ゆかりは動揺した。

ゆかりは、肩にかかる黒髪を掻きあげながら鏡に映る自分の姿を見た。

剃り整えてもいないのに真っ直ぐなラインの眉、
左右が少しだけ垂れた目の下がぷっくりと膨らんでいて、
彼女自身はそれを疎んでいたが男性からは良く好まれた。
鼻はそれほど高くないがすっきりと筋が通っている。
そして、夫が一番好きと言ってくれた薄く濡れたような唇。
細面の、日本的な顔立ちだと、夫はそうも言ってくれた。

自分の外見的魅力が無いとは決して思わないゆかりだったが、
それでも性的欲求の対象にされるというのは想像の埒外だった。
大学をやめて、結婚してすぐ裕樹を生んで、もう十二年。

夫以外の男性に言い寄られた記憶は、すでにほとんど忘却の彼方だ。
増して最近ではその夫すら相手をしてくれなくなっていた。
こんな自分を、それでも抱きたいと思うものなのだろうか?

強い嫌悪と同時に、ほんの少しだけ誇らしいような気持ちにもなる。

目を閉じる。
夫の顔が浮かんだ。大学生の頃の、若々しい彼の顔が。
次に裕樹の顔が浮かぶ。教科書とノートに突っ伏して眠ってしまった彼の顔。
それから最期に、神崎の顔が。

静かにまぶたを開く。
鏡の中で、とても強い顔をした女が、ゆかりを睨んでいた。

四者面談をします、と言われたとき、ゆかりはかなり驚いた。
人の家庭にまで図々しく顔を出すつもりなのかと。

神崎は事も無げに「やるからには徹底的に、がモットーでして」と言った。
「ご両親の教育方針も知っておきたいのですよ、奥様」と付け足す。
あんな取引を持ち出しておいて「奥様」もないものだ。

「本当に、大丈夫なんでしょうね」
「ええ、もちろん。何しろ飛び道具がありますから」
「飛び道具?」

神崎はバッグから、一冊の冊子を取り出す。
「平成20年度」という字が見える。
それが何であるか、ゆかりにはすぐに分かった。

「それは……試験の!?」
「解答はお教えできませんよ。あくまでも私がお教えするのは問題です」
神崎はそう言ってすぐに冊子をしまった。

「試験の前日に、問題の内容を口頭でお伝えします」
「なんで!?」ゆかりはつい大声を出す。「今、それを渡してよ」
「お客様はあなただけではありませんから、これを渡すような
 リスキーな真似は出来ません。私の切り札ですからね」
神崎はそう言う。

確かに冊子を受け取ってしまったら、ゆかりが他の人間に渡すかも知れない。
物的証拠を残すわけにもいかないのだろう。神崎は用心深かった。

「では、面談の日に、また」
そういい残すと、彼は伝票をつまんでファミレスを出て行った。

神崎の左手が、ゆかりのスカートの裾をつまんで、
ゆっくり、まるで水中を掻くようにゆっくりとたくし上げていく。
ゆかりはそれを両手で押さえながら、裕樹の顔を見た。
息子は退屈な会談にやや辟易した表情で、机の上の資料を見ている。

「裕樹君は、この中学に入ったら何をしたいの?」
神崎が訊いた。

「うーんと、サッカー。……です」
少し考えてから、裕樹が答える。
目上の人だから敬語をつけたほうがいいと判断したようだ。

「そっかあ。長いこと勉強ばっかりだったからね。
 運動もしたいだろうね。僕もね、昔サッカー部だったんだ」
神崎は息子に微笑みかける。彼の右手は額に添えられていて、
左手はゆかりの太股を撫で回している。

「この中学からだと、高校に受験無しで進学出来るから……
 サッカーの名門だなあ。厳しいと思うけど、裕樹君なら出来るよ」
神崎は甘ったるい言葉で、裕樹を励ました。

「奥様も、そう思いますよね」
「ええ」
ゆかりはかろうじて、それだけ答えた。

男の指が、ゆかりの長い脚のつけねに触れている。

そこから30分ばかり、真剣な話題が続いた。

苦手科目、得意科目、面接。
スケジュール的にもう始めなくては厳しい。
神崎は真剣に、本当に裕樹の将来を心配しているとしか思えないほどの
表情で語り続けた。

神崎とゆかりは、ほとんど一対一で話す格好になっていた。
彼の手は執拗にゆかりの尻や脚を撫で回し続けている。

夫が二階の部屋で仕事をしているのが、天井の僅かな軋みで分かる。
気まずさもあり、しばらくは降りてくることもないだろう。
ゆかりは生返事をしながらそんなことを考える。

ふと、ゆかりは裕樹を見る。
さっきから船を漕ぎ出していた息子は、ついに耐え切れず
眠ってしまったようだ。彼は机に突っ伏して眠ることに慣れていた。

「裕樹君、眠っちゃいましたね」
神崎は笑う。
笑って、ゆかりのスカートの中に右手も入れた。

「やめ……て下さい」
彼女の懇願に、神崎は少し戸惑ったような表情を見せる。
「やめる、というのは、何をです? 取引き全てをですか?」
火照った太股の上を、神崎の冷たい指先が滑っている。

神崎の左手が、ゆかりの背中に触れた。
そして少しだけ身体を引き寄せようとする。

ゆかりは「だめ」と言って、神崎の身体を押しのけようとした。

「大きな声は出さない方がいいですよ、奥様。
 裕樹君が起きるのも、旦那様が降りてくるのも、どちらも
 貴女の望むことではないでしょう?」
背中に回された神崎の手が、反対側のわき腹をつかんだ。

裕樹の寝息が聞こえる。

「可愛らしい寝顔ですね」
神崎は言う。
「優しそうな眼はお父さん似で、鼻筋と唇の綺麗さはお母さん似かな」

神崎の口調は穏やかで、毒気が無くて、声だけ聴けば
とても善良な人間にさえ感じられる。
太股をねっとりと撫で回す手つきとなんとも不釣合いで、
ゆかりにはそのギャップが薄気味悪く感じられた。

「静かに、息を殺すように静かにしていていただければ、
 30分から一時間程度で終わる仕事ですよ、奥様。
 伊東さんのときは少し長引いて、70分かかりましたが」
さらりとした神崎の言葉に、ゆかりは反応する。

「伊東さん!?」
言ってから、考えてみれば当然のことだとゆかりは思った。
伊藤夫人もこうして、我が子を整ったレールに押し上げたのだ。

「伊東さんのときは、隣の部屋に旦那様と娘さん二人が居て
 テレビを見ていました。伊藤さんは自分の親指を噛んで、
 声を出さないようにこらえて下さいましたよ」

神崎の右手がスカートをまくりあげる。
白く長い脚が冷えた空気に晒された。
膝からふくらはぎにかけての芸術的な曲線と、うってかわって細い足首。
神崎は感に堪えないといった表情で、ゆかりの脚を見つめる。

「綺麗だ」
まるで深秋の星空を見上げて呟くような、感嘆の言葉。

わき腹を抱いていた左手で、神崎はゆかりを抱き寄せた。
そして、彼女の「綺麗な」脚をまた右手で撫でる。
ゆかりは思わず男の顔を見る。お互いの顔が10センチの距離にある。

眼が合った。

神崎の表情は飽くまでも変わらない。
「何か異論でも?」と言わんばかりの冷徹な目。

「奥様、すいませんが舌を出していただいていいですか?」
「した?」
言ってから「した」とは「舌」のことだと気付く。

「口を開けて、舌を出せるだけ伸ばして下さい」
「な……なん」
「奥様に私の切り札を渡すのですから、私も奥様の全てを堪能したいんです」

この瞬間、冷厳な神崎の眼に、はじめて獣めいた肉欲が滲んだ。

「ぁ、やだ……嫌です」
「許可を求めてはいません。指示しているのです」

「余り時間はありませんよ。どうかお急ぎを」
言葉とは裏腹に、焦りを感じない声。

ゆかりは神崎から眼を逸らす。

みし、と音がした。
二階からだ。
夫の存在を再び思い出し、彼女は動揺する。

唇を開いて、ゆっくりと舌を出した。
舌先が震えているのが自分でも分かる。

「もっと、全部出して下さい」
神崎がそう言って、ゆかりのわき腹を撫で回す。
彼女は意を決して、ずるり、と舌を出し切った。

それを見て、神崎は溜め息のような笑いを浮かべる。
まるで失笑されたようでゆかりは苛立つ。
自分でやらせておいて、と。

「乾いているかと思ったんですが、舌先も唇も濡れて光っていますね、奥様。
 普通はもっと緊張してからからに口の中が渇いているものです」
神崎の右手が、彼女の頬を撫でた。
「期待しているんですね」

反論しようとしたゆかりの舌に、神崎がしゃぶりつく。

パソコンのキーボードを叩きながら、仁科明秀は憂鬱だった。
それは、自宅で仕事をしていることが原因ではない。

仕事を口実として逃げた自分に対しての苛立ち。
妻の前で別の男に言い負かされた自分に対しての情けなさ。
息子のために何もしてやれない不甲斐なさ。

彼を憂鬱にさせるのは、自分に対しての失望感である。

カシャカシャと、打鍵の音が静かな部屋に虚しく響く。
階下からは、音がほとんど聞こえない。
声を潜めて話しているのだろうか。それともあの男はもう帰ったのだろうか。

モニターに集中出来ない。
しかし、下に降りて再び問題と向き合う覚悟がなかなか生まれなかった。
苛立ちだけが募っていく。

窓を開けて、それから引き出しから出したタバコをくわえる。
裕樹が生まれたときに、妻に「もう二度と吸わない」と誓ったものだ。
カートンで買っていたアメリカンスピリットのメンソールを、
あの日ゴミバコに叩き込んだのを覚えている。

煙が窓から逃げていくのを眼で追いかけながら、
彼は答えのない思惟を巡らせた。

下に降りるべきか。彼は迷う。

「むっ……ふ……は、っ」
神崎の舌が、ゆかりの咥内の粘膜を舐めていく。
口の中を洗浄するように、それは執拗だった。

愛息の寝息が、一瞬止まったような気がして、ゆかりは動揺した。
更に、天井の軋む音。パニックになりそうになる。

「こうやって、体に触れるとね、色々なことが分かるんですよ、奥様」
最期に唇と唇を合わせるようにしてから、神崎は顔の目の前で囁いた。

「舌の動き、眼の動き、肌の動き、肩の動き、息の響き、声の響き。
 全てが、奥様の体の全ての反応が、物語っている」
「何を……、何がですか」
「恥じることではありませんし、悪いことでもありません。
 ただ、奥様の肉体は心理や心情とは違う反応を示している」

そこで神崎は、また人差し指を天井に向けた。

「心から不愉快で嫌悪を抱いている人間は、もっと痙攣的な強い反応を示すものです。
 どんなに声を出さないように、暴れないように、と自分に命じても
 本当に嫌な人間は必ず身体にその反応を表すものです」

男の自分勝手な理屈に、ゆかりは呆れたような苛立たしいような
奇妙な気分にさせられる。この男は何を言っているのか。

「空腹のときに食べ物を見ると、自然と唾液が口の中に溢れるように
 奥様の身体はね、男性を求めているんです。それが夫であれば良かった。
 そうすれば何も問題なく受け入れられたのに」

「一ヶ月、二ヶ月、いやもっと、半年くらい振り、ってところでしょう?」
「違います」

ゆかりは否定しつつ、最期に夫に抱かれたときを思い出す。
確かに、三ヶ月か四ヶ月は経っている。

神崎は再び、ゆかりの身体を抱き寄せた。
吐息が首筋にかかる。思わずびくん、と身体が動く。
耳たぶの裏に、生暖かい舌が当たる。

「嫌」と彼女が言うのと同時に、「ぅ?ん……」という幼い声が聞こえた。

「お静かに願います。息子さんに見せるには酷でしょう……。
 ジョン・レノンとオノ・ヨーコじゃあるまいし。
 それにしても、奥様、綺麗な肌ですね……素晴らしい」

お静かに、と言いながら神崎は、ぴちゃぴちゃと音を立てて
うなじから耳の裏、そして頬を嘗め回した。

ゆかりは奥歯を食いしばり、声を出さないようにする。
それでも「く」だとか「ぅ」という呻きは漏れた。
彼女の背中に回っている神崎の左手が、背中を撫で回している。
そして、脚の上に置かれた神崎の右手は、下着の上から
ゆかりの局所に触れようとする。

反射的に「触らないで」と言いそうになった。

「もう一度、舌を出して下さい」
神崎が当たり前のように言う。

今度は舌を出さなかった。
口を閉じたまま、顔を逸らす。
そうしてはいけない、と分かっていても、従順になれなかった。
まださっきの、神崎の舌の味が口の中に残っている。

「今さら反抗するなんて……でも嬉しいですよ、そういうのが、私は」

神崎は、ゆかりの閉じた口に吸い付こうとする。
彼女は顔を左右に振って逃れようとしたが、身体を抱き寄せられている上に
音を立てないように気を遣っていたため、ほとんど意味が無かった。

「反抗されたり、抵抗されるのは良くあることです。当然のことです。
 素直に受け入れられる人の方がおかしい。それは正常です。
 そして……そういう受け入れることを拒む人の中に、入り込むのが
 私の愉しみであり悦びなんですよ」

神崎は台本を朗読するように、長いセリフを一息で言い切った。
ゆかりの二の腕に鳥肌が立つ。
中に、入り込むのが、愉しみで、悦び。

「脚を広げてください。早く弄って欲しいって言ってますよ」
「言ってませんっ」
「奥様の核の部分が、そう言っているんですよ」

神崎はそう言って笑う。笑いながらまたゆかりの唇を舐める。
少し開いた口をむしゃぶりつく。舌を捻じ込む。
唾液でゆかりの咥内を汚し続けた。

そして、下着の上から、ゆかりの文字通りの「核の部分」に触れた。

神崎の人差し指と中指は、ゆかりの性器の亀裂を下着の上からなぞると、
それから陰核に「触れないように」蠢いた。
当然、陰核をこね回されることを予想していたため、
ゆかりは期待していたわけではないのに、肩透かしを食った思いをする。

そしてしばらくしてから、神崎は「焦らして」いるのだと気付いた。
焦らされれば女の身体が求めだす、などと安物の官能小説のようなことを
本気でこの男は信じているのだろうか。半ば呆れたような思いが過ぎる。

だが、そこで初めて、ゆかりは自分の体の異変に気付いた。

痒いところに手が届かないような、もどかしさが身体を包んでいる。
足がかゆいのに、靴を脱げないような、掻き毟りたいという強いもどかしさ。
だが、痒いわけではない。熱っぽい衝動が身体中を跳ね回る。

陰核がむずむずとして、腰が落ち着かない。脚を動かしたくなる。
神崎の舌が踊る口の中に、彼女自身の唾液が溢れていくのが分かる。

神崎は顔を彼女から離した。
唾液が糸を引いたので、彼は苦笑してそれを手で払う。

「良かった、悦んでくれているみたいで」

そう言いながら、男はまた指先で陰核の周囲を撫でる。

「悦んでません。勝手なことを言わないで」
「鼻息が荒くなっていますよ、奥様。落ち着いてください」
神崎は笑う。

いびきが聴こえた。
裕樹は正座して机に突っ伏した姿勢で眠っている。
「良くあの格好で熟睡できるなあ」と神崎は笑った。

男の左手が、衣服の上からブラジャーに触れた。
乳頭の場所を探るように、指先で表面を撫で回す。
右手は相変わらず「焦らし」を続けていた。

「ある程度、性交の回数を重ねた人の方が、焦らされるのに弱くなります」
理科の教師のような口調で、神崎は言う。

「なぜなら、回数を重ねているほど、こうされたらどう反応するかを
 身体が覚えてしまっているからです。パブロフの犬の話のように」
「犬と同じにしないで下さい」
冷静に言うつもりだったが、少し怒りが滲んでしまった。

確かに、焦らされて反応してしまっているのは、否定できなかった。
ゆかりは、自分がこんな単純な反応をしていることに驚く。
確かに余りされたことは無い行為だが、それにしても。

下腹部の中に熱い塊があるような感覚がある。
そして、それがゆっくりと溶けていき、液体となる感覚も。
なかなか触られない陰核が、ぴくぴくと痙攣している。

肩が上下してしまっている。神崎が指摘したとおり、鼻息が荒くなっている。
下着をなぞっている神崎の指が止まった。

「困りますね、まだ何もしていないのに」

「唾液には色んな用途があります。殺菌剤だったり、緩衝材だったりね。
 でも、膣分泌液には一つしか用途がありません。性交時の潤滑剤です」
また一息で、神崎は言う。

「とりもなおさず、それは受け入れる準備が整っているということです。
 普通はこうはいきませんよ。今までこんな過敏に反応された方は
 いませんでした。……イレギュラーですね」

ゆかりは口を開く。だが言葉は出てこなかった。
「濡れていません」と反駁したい気持ちがあるが、それを言えば
彼がどんな行動に出るか容易に想像できた。

神崎の左手が、服の上からゆかりの乳頭の位置を確認して、
それを指先でこすりだした。
わざわざ立たせる間でも無く、胸の先は堅く尖っている。

唾液でぬめった舌が、彼女の首筋を這う。
くすぐったさで、身体が跳ねるように痙攣する。
皮膚が敏感になっているのが自分でも分かった。

「旦那さんも罪な人だ。奥様はきっと、自分から求めたりは
 しない女性なのですね。だから、こんなになるまで放置されて……」
「だから……っか、勝手に想像で、話を作らないで下さい」
「言葉以外、奥様の全てがもう、恭順の意を示していますよ」

乳房を優しく揺すりながら、神崎は囁く。

「……心が痛みます、奥様」
神崎は、まるで葬式の挨拶のように言う。

「愛する旦那様に対して、性交を求めることすらしてこなかった
 貞淑なる貴女に対して、交渉の結果とはいえこんなことをしている。
 愛情の交感ではなく、肉欲の交歓をさせてしまっている。
 清楚なる貴女に対して、不義を、いやらしいことを強要している。
 ……心が痛みます。ですが奥様、これは仕方のないこと」
「あまり喋らないで、裕樹が起きる、起きちゃうでしょ」

一拍の間があった。

「いじって欲しい、と旦那様に要求したことはありますか?」
「……っ何を言っ」
「クリトリスをいじって欲しい、と旦那様に言ったことは?」
「ありません……おかしいんじゃないですか? 普通言いません」
「では、それを私に言って下さい」
「ふざけないで……っおかしいわ、あなたは」

「言うまでは終わりませんよ、奥様。今までの皆様もそうでした。
 伊東さんもね、何度も何度も私に囁いてくれました。
 そうしてようやく、彼女は可愛い子供の人生をより豊かな場所へ
 押し上げることが出来たんです。貴女だけを甘やかすわけにはいきません」
言葉とは裏腹に、神崎の口調には怒りも苛立ちも含まれていなかった。
彼はゆかりを焦らすのと同じように、自分自身も焦らしている。

「……やだ」
子供じみた抵抗の言葉が出た。

陰核がもどかしさに固くなり、痙攣するようにぴくぴくと律動している。
膣からだらしなく、分泌液が垂れている。
それでも、ゆかりの理性は自分から求めることを拒絶していた。

「言わないと終わりません、ということを繰り返します」
「だって……そんな、そんなことを、私は」

腰が前後左右に揺れる。

思考と心情と理性と、肉体がここまで相反したことは無かった。
砂漠で毒の入ったオアシスに出会ったような、強烈な二律背反。
水を飲みたい、という渇きと、飲んではいけない、という理性。

「ここで終わりにしたいのですか?」
神崎は、この期に及んでなお、衝動的にも暴力的にもならなかった。
それは恐らく紳士だからではなく、自分を焦らせば焦らすほど
性感が高まることを知っているからだろう。

「私、わたし……」
「裕樹君のためなら、何だって出来ると思ったのですがね。
 それくらいの言葉はいえるでしょう?」

裕樹のために、という言葉が頭の中に反響する。
男の指先が、湿った襞をくすぐっている。

「っ……ク……」

「クリ……ス……いじっ……て」
「もう一回最初から言って下さい。聴こえません」
あっさりと神崎は否定した。

「恥辱」とは恥と屈辱と書く。
ゆかりは生まれて初めてその意味を思い知ることになった。

「クリト、リス、いじって……下さぃ」
「おや、いいんですか? 私は貴女の夫でも無いのに、そこまでしても?」
「いじって……くだっ、あ、あぅっ、やだぁ」

無意識に、神崎の背中をつかんでいた。
散々焦らされて、堅く大きく熱くなった陰核に、いきなり指先が交互に
摩擦を加えたのである。しびれるような快感が腰から背骨を伝って駆け上がる。

「ぁ、はぁ、あっ、ぅくっ、んひぁ」
「凄い反応しますね……ちょっとこねたくらいで。裕樹君おきてますよ」

びくん、と首を半回転させて、ゆかりは息子の方をむいた。
さっきと変わらぬ姿勢で、寝息を立てる愛息がいる。

「冗談です。しかし……そろそろ終わりにしないと本当に起きてしまうな。
 では奥様、次の要求は……言わなくても分かりますね?」
「……」
肩で息をしているゆかりには、返事を返す気力も無い。

「ぃ……ぃれ」
「え?」
「ぃれ、て……下さい」

神崎は下着の中に右手を入れる。
膣内に中指を入れると、抵抗無くずぶりと沈み込む。

「奥様、基本的なことですが、そういう要求をするときは
 誰のどこに誰の何を入れてどうして欲しいか、を言いましょう。
 主語と述語をはっきりとね」
「……」
「奥様がそれを言うのを聴きたいのです」

静かな部屋に荒い息だけが聴こえる。

「私の」
ゆかりの声が、涙声になる。

「……に、貴方の……を入……て……」
虫の羽音のような、か細い声。

「………ぃて下さい」
そこまで言い切ると、ゆかりは顔を床に向けた。
頬からぽた、と雫が落ちる。

粘り気のある液体と、熱い肉が擦れあう時の
「くちゅくちゅ、くぱくぽ」という間の抜けた音が部屋に響く。
神崎はゆかりの膣から指を抜くと、人差し指と中指を広げる。
指と指の間に、きらきらと体液が糸を引いていた。

「では、失礼して」
ズボンのチャックの間から、神崎は自分の性器を取り出した。

服を着たまま、ゆかりは仰向けで床に寝かされる。
彼女は、自分の腕で、眼を覆った。
広げられた脚の間に、男が居るのが分かる。

経口に、男の肉が当たった。
異物が身体の中に入っていく感覚に備えて、ゆかりは身体に力を入れた。

「ぅ……う」
ゆかりの呻くような声が漏れる。
同時に、神埼が初めて快楽の喘ぎを漏らした。

ずるりと、男性器が根元まで押し込まれる。
それと同時に、ゆかりの唇に、神崎の舌が触れた。

一瞬、間があく。裕樹の寝息が聞こえて来る。
二階の軋み音がないことに、ゆかりは気付いた。
まさか、降りてきている?

そう思った瞬間、神崎の腰が激しく動き始める。

こんな荒々しく突かれると思っていなかったので、
ゆかりは思わず「そんなっ」と口走ってしまった。

神崎の表情はさっきまでの紳士ぶったものではない。
がくがくがくがく、と一秒に二往復するような激しい前後運動が始まった。
膣内を荒れ狂う性器の振動に、ゆかりは声を出してしまわないよう
両手で自分の口を塞いだ。

神崎はそんなゆかりの必死さなど構うことなく、
ただ粘膜の刺激に身をまかせている。
照明の明かりを背にした神崎の表情は、ゆかりからは見えなかった。
それでも滲んだ視界の中で、男が笑っているのは分かった。

ゆかりは自分の人差し指を噛んだ。
「ふっ、んっ、ふっ……ふっ……うっ」と、まるで腹筋しているときのような
規則正しいうめき声が歯の間から漏れていく。

「あぅぁっ!!」
自分でも驚くほどの声。
神崎の動きが早まる。

背中がえび反りになっているのが分かる。脚が限界まで伸びて、攣りそうだった。
びくんびくんと跳ねる腰が、神崎の性器を締め付ける。
全身が熱くなり、一瞬何も考えられなくなった。

それでも、神崎の動きは止まらなかった。

一頻り痙攣したゆかりを、ペットでも見るような愛おしい視線で見つめながら
彼はまだ満足していない、という旨をゆかりに告げる。

自動販売機のボタンを押して、タバコを取り出した。
明秀はおつりをポケットに捻じ込んで、それからふと、夜空を見上げた。
東京の空には、星が無い。
代わりに、人の心を穿つ静けさが端から端まで広がっている。
溜め息が出た。

電信柱の下で、隣家の主婦とすれ違う。
「こんばんわ」と挨拶をした。

化粧栄えのしそうな顔立ちのその女は、明秀の顔をまじまじと見てから
「……こんばんわぁ」と料亭の女将の様な挨拶を返した。

「今日、仁科さんの御宅に、神崎先生がお見えになってるんですよね?」
「あの人、知ってるんですか?」
「奥さんにご紹介したの、私なんですよぉ」
どこか媚びるような声で、彼女はしなを作った。

「子供が幸せであれば、僕はそれでいいんですけどね……」
「大丈夫ですよ、息子さん、受かりますよ」
根拠の無い励ましの言葉だと感じながらも、
明秀は「ありがとうございます」と言って、その場を離れる。

家の門を開けて、ドアを開けようとしたとき、ふと振り返った。
伊東夫人がさっきと同じ場所に立っている。
「何か?」と明秀は声をかけたが、彼女は何も言わず、黙ってこちらを見ていた。

家の中から、息子の声がした。